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生産 |
吉田牧場 |
誕生日 |
1973年4月19日 |
馬主 |
高田 久成 |
調教師 |
小川 佐助(栗東) |
父 |
コントライト |
母 |
ワカクモ |
性別 |
牡馬 |
毛色 |
栗毛 |
通算成績 |
18戦11勝(内重賞5勝)2着4回 |
桜花賞馬を母に持つテンポイントは産まれた時から期待されていた。
それは名前が示す通りであり、
新聞の一面の見出しに出るような馬になってもらいたい。
そう言うオーナーの期待が込められ、
当時の新聞の見出しのフォントサイズ10ポイントから来た名前である。
そしてこの馬は本来なら産まれてくるはずのない馬でもあった。
デビュー戦は3歳の函館で行われた新馬戦(芝1000m)
調教で好時計を連発していたテンポイントは1.6倍と言う
圧倒的1番人気になる。
レースの結果は文句のつけようない結果で、
2着に10馬身差。レコードのオマケ付きで勝利する。
そして2戦目には京都で行われた3歳オープン特別の
もみじ賞(芝1400m)
ここでもテンポイントの敵はいない。
2着の馬に9馬身差をつけての楽勝。
当時の競馬は強い関東馬・弱い関西馬と言う傾向にあり、
強い関西馬の登場で一気に関西の競馬ファンの熱が上がる。
そして2連勝できたテンポイントは阪神で行われたGⅠ
阪神3歳ステークス(芝1600m)に出走する。
今では阪神ジュベナイルフィリーズと名前を変えて、
2歳(現表記)の牝馬No,1を決めるレースとなっているが、
当時は3歳の関西馬No,1を決めるレースであった。
テンポイントはここでも当然1番人気になり、その人気に応える。
このレースを実況していた杉本清さんは直線入って早々に
「見てくれこの脚!見てくれこの脚!
これが関西の期待テンポイントだ!!」
と絶叫してしまったぐらいである。
この頃から栗毛に輝く馬体・鼻筋に通った白い流星から
気品のある顔立ちに見え、
流星の貴公子
と呼ばれるようになる。
年が明けて4歳になったテンポイントは初戦に
東京で行われたGⅢ東京4歳ステークス(芝1800M)
に出走する。
初めての輸送競馬ではあったが、そんな物は不安材料になるはずも無く、
関東の競馬ファンにも「関西にテンポイントあり」
と知らしめる結果となる。
続く4歳2戦目にGⅠ皐月賞のトライアルレース
中山で行われたGⅡスプリングステークス(芝1800m)に出走する。
関東在籍の馬が権利を狙って出走するも
テンポイントの敵はいなかった。
そして本番のGⅠ皐月賞(芝2000m)
のはずだったが、まさかの厩務員ストライキが発生し、
皐月賞は中止になってしまう。
しかし、スト明けの東京競馬で代替として皐月賞が行われる事となった。
1番人気はテンポイント
2番人気は関東で彗星の如く現れた無敗のトウショウボーイ
レースはトウショウボーイが2番手を追走。
テンポイントはそれを見る形で4番手を追走する。
3・4コーナーで勝負に出たトウショウボーイは
直線入り口で後続に大きな差をつける。
一方テンポイントは勝負所で置かれてしまい、
トウショウボーイとの叩きあいに持っていく事ができず、
トウショウボーイがゴールした5馬身後方で2着に上がるのが精一杯だった。
まさかのテンポイントの敗北。
しかもちぎられた事もあり、
トウショウボーイの強さだけが際立つレースとなった。
その後東京で行われたGⅠ日本ダービー(芝2400m)に出走する。
しかし、ここで初めて1番人気をトウショウボーイに譲り、
テンポイントは2番人気になってしまう。
レースはトウショウボーイが逃げる展開。
テンポイントは行きっぷりがあまり良くない。
直線に入ってトウショウボーイが逃げ切るかと思われたが
外からクライムカイザーに楽にかわされ2着に終わる。
一方テンポイントは直線でも見せ場はなく、7着と大敗してしまう。
その後テンポイントはレース中に骨折していた事が判明。
秋まで休養に入る事となる。
秋になり、骨折が完治したと言っていた陣営は
京都で行われたGⅡ京都大賞典(芝2400m)に出走させる。
古馬との対戦でしかも本当に骨折が治っているのか曖昧だった為に
6番人気と低評価となる。
しかし結果は3着に入り、骨折完治は証明された。
そして京都で行われたGⅠ菊花賞(芝3000m)
1番人気はトウショウボーイ
2番人気はクライムカイザー
テンポイントは3番人気であった。
レースは皐月賞のリプレイのように、
トウショウボーイを見る形でテンポイントが追走。
そしてトウショウボーイが3コーナー過ぎで仕掛けたのを見て
テンポイントも今回はついていく。
4コーナーを回る際にテンポイントはトウショウボーイをかわして先頭に立つ。
瞬間のキレを発揮したテンポイントはトウショウボーイに差をつける。
誰もがテンポイントの勝利を確信した。
杉本さんも実況で
「それ行け!テンポイント!鞭などいらぬ!押せ!テンポイント!」
と絶叫をしたその直後だった。
内からグリーングラスが追い込んできたのだ。
トウショウボーイをかわすのに全力を使ったテンポイントは
グリーングラスのまさかの強襲を防ぐ事はできず2着に終わる。
そしてこの瞬間、切っても切れぬ
テンポイント・トウショウボーイ・グリーングラスの3強の凌ぎあい。
いわゆるTTG時代が始まる事となる。
今年の4歳馬は強い!
誰もが確信したGⅠ有馬記念(芝2500m)
グリーングラスこそ出走しなかった物の、
テンポイント・トウショウボーイが出走。
古馬からは天皇賞馬3頭が出走するも
4歳馬の方が遥かに強い事が証明される。
1着はレコードでトウショウボーイ
2着にテンポイント
離れた3着に天皇賞馬のアイフルであった。
年が明けて5歳。
トウショウボーイは有馬記念後に脚部不安を発症し休養。
グリーングラスはAJCCをレコード勝ちする。
テンポイントは京都で行われたGⅡ京都記念・春(芝2400m)に出走。
足慣らし程度のレースと言わんばかりに軽く勝利。
続くGⅡ鳴尾記念(芝2400m)も勝利し、
京都で行われたGⅠ天皇賞・春(芝3200m)に出走する。
好敵手トウショウボーイは未だ怪我が完治せずにいた。
1番人気はテンポイント
2番人気はグリーングラス
誰もがこの2頭の一騎打ちかと思われたが
グリーングラスが精彩を欠いてしまい、
テンポイントが勝利するも2着にクラウンピラードと言う
伏兵がきてしまう。
ようやく大きなGⅠを勝つ事ができたテンポイントは
阪神で行われたGⅠ宝塚記念(芝2200m)に出走する。
出走頭数こそ6頭と少なかった物の、トウショウボーイが戦列復帰する。
1番人気 天皇賞馬テンポイント
2番人気 皐月賞馬トウショウボーイ
3番人気 菊花賞馬グリーングラス
4番人気 天皇賞馬アイフル
5番人気 ダービー馬クライムカイザー
6番人気 後の天皇賞馬ホクトボーイ
と豪華メンバーで行われた。
レースは休養明けのトウショウボーイが逃げる展開。
それを見る形で5頭が固まって追走。
4コーナーを回る時にテンポイントがトウショウボーイとの差を詰めるも
かわす所までは行かない。
結果、
1着トウショウボーイ
2着テンポイント
3着グリーングラス
と言う結果に終わる。
その後休養に入ったテンポイントは
秋初戦のG Ⅱ京都大賞典と東京のオープン特別を2連勝し
12月の中山で行われるGⅠ有馬記念へと駒を進める。
当時は1回天皇賞を勝った馬は天皇賞に出走できない。
と言う決まりがあった為に、
天皇賞・秋で激闘して共倒れした
トウショウボーイ・グリーングラスとは戦っていない。
そして有馬記念前に
トウショウボーイは有馬記念で引退し種牡馬になる事を発表する。
テンポイントにとってこの有馬記念が最後のリベンジのチャンスとなる。
今までのテンポイントvsトウショウボーイのレースを見ると
最終コーナーを先に回った方が先着している。
と言う結果が見られた。
レースはトウショウボーイが逃げる展開。
そしてそれを執拗に追いかけるテンポイント。
隙あらば。。と言う感じでテンポイントがちょっかいを出すが
トウショウボーイも意地になって譲らない。
気が付けば2頭だけでレースをしている感じになってしまう。
4コーナーを回った所でトウショウボーイが仕掛けるも、
先に最終コーナーを回ったのはテンポイント。
後ろで脚をためていたグリーングラスが追い込んでくるも
2頭の間に割って入る事ができずに終わる。
結局ゴール板前まで壮絶な叩き合いを繰り広げ
テンポイントが3/4馬身先着する。
こうして最後の最後でトウショウボーイに一矢報いる事ができた。
年が明けて6歳。
テンポイントは海外遠征のプランがある事を発表。
その前に日本での最後のレースとして
京都で行われたGⅡ日経新春杯(芝2400m)に出走する。
当日はあいにくの天候であったが、メンバーは手薄であった。
レースを実況していた杉本さんが
「あたかもテンポイントの門出を祝っているかのように
小雪舞い散る京都競馬場です。」
と言っていたが、これは後に祝いの雪ではなく、
テンポイントの心の中の涙であったと言われる事になる。
メンバーは確かに手薄。
しかしテンポイントにとって最大の敵がいた。
66.5Kgと言う過酷な斤量である。
競馬ではレースによって背負う斤量が変わります。
GⅠなどの大きなレースは固定されているのですが
GⅡ・GⅢなどでは各馬の力のバランスを取る為に
強い馬には重い斤量が課せられます。
そしてこの66.5Kgと言う斤量は
今の競馬では考えられない重い斤量なのです。
天皇賞での斤量が58Kgと言うのを考えると
その差はなんと8.5Kg。
どれだけ重いかが解ると思います。
レースはそんな斤量をものともしない感じで
テンポイントは先行する。
が、4コーナー手前でテンポイントの馬体は突如として沈む。
スピードが落ち、他の馬が直線に入っているにも関わらず
TVカメラは別の場所を映していた。
TVに映されていたのは
左後脚がブラブラになっているテンポイントであった。
普通なら安楽死確実の故障である。
しかし、多くのファンや関係者により
なんとか一命を取り留めて子供を。。
と言う声が多かった為に治療をする事になる。
しかし、500Kgを越える馬体を細い3本の脚で支える事は困難であり、
負担がかかった脚は蹄葉炎を発症してしまう。
そして治療の甲斐も空しく43日後その生涯に幕を閉じる事となる。
この事故が起きてから競馬関係者の意識改革が起こり、
ハンデ戦での負担重量の改善が行われる事となる。
更に、この治療が大きく後の獣医療に貢献する事となり、
今では骨折をしてもボルトを埋め込んだまま走れる技術が生まれている。
テンポイントは久しぶりの強い関西馬と言う事で
明石家さんま・山田雅人など、
多くの関西の著名人に愛される馬であります。
そしてトウショウボーイ・グリーングラスとの
劇的とも言えるレースを繰り広げた事で
競馬をやっている人であれば当時を知らない人でも
必ず1度はそのレースを観るであろう馬でもあります。
また、テンポイントの調教師小川さんが
「このまま関西馬が弱いままではいかん!坂を作れ」
と言ったのもテンポイントがいたからでしょう。
そしてその言葉は多くの栗東在籍調教師にも浸透し
ミホノブルボン・トウカイテイオーなど多くの名馬を鍛え上げた
栗東名物の坂路コースが完成する事となる。
そして、テンポイントの生い立ちも
この馬の魅力を引き立てていると言えます。
クモワカ事件
競馬をやらない人は聞いた事がない事件だと思います。
クモワカとは、桜花賞2着と言う実績に加え、
生涯11勝をあげている名牝である。
しかし、1952年に発生した馬伝染性貧血で陽性と診断されてしまう。
通称伝貧は馬のかかる伝染性のウイルスで、
当時は治療法が無く、陽性診断が出た場合は
ウイルスが広がらないように薬殺処分する決まりになっていた。
しかし、クモワカはその伝貧の症状が全く出ていなかった。
納得のいかない関係者はクモワカを密かに牧場に戻し隠蔽する。
牧場に戻ったクモワカは種付けを行い産駒を次々と出す。
しかし、既に存在しない筈であるクモワカの子供は
競走馬としての登録が出来ずにいた。
伝貧にかかった馬がまだ生きている。
しかも、子供まで産んでいるのである。
当然伝貧だったと言うのは誤診であると言えた。
それを根拠に牧場は
クモワカが伝貧ではない事を認めてもらう為に裁判を起こす。
これがクモワカ事件である。
伝貧ではないと裁判で証明されたクモワカは、
幼少の頃に使っていた名前丘高で再度登録される事となる。
そして、丘高最初の産駒が桜花賞馬ワカクモであり、
その子供がテンポイントなのである。
よって、テンポイントはクモワカが薬殺処分をされていたら
この世に生を受けていなかった事になる。
テンポイントの子供は残念ながら見る事はできなかったが
クモワカ→ワカクモの血筋は
ワカオライデン・フジヤマケンザン
によって今も引き継がれている。
日経新春杯の時の杉本さんの実況は泣けたなぁ。。
てか、ワカパイって最近見ないがまだいるんか?w